北条政子の墓 ~鎌倉へ~

先日、北条政子さんのお墓と伝えられている五輪塔[その1解説へ]に行ってきました。

現在放送されている、2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で小池栄子さんが演じられています。

歴史上さまざまな解釈がされていますが、大河ドラマでは思慮深い慈愛に満ちた政子さんとして描かれています。

北条政子さんのお墓と検索すると、神奈川県鎌倉市がヒットします。
寿福寺というお寺にあると分かります。

【北条政子の墓】とグーグルマップで検索して、お墓の場所を見つけても、実際に辿り着くには少々わかりづらいので参考になれば。

お墓の場所

鶴岡八幡宮の西側、湘南新宿ラインを挟んで100mくらいの距離にある寿福寺(公式ホームページ)という、お寺の中に供養塔はあります。

重厚な門です

寿福寺の玄関である「外門」です。

寿福寺へは、鶴岡八幡宮を後ろに右手方向に歩いて、横大路へ。

住宅が並ぶ『鎌倉市川喜多映画記念館』を右手に見ながら、右にカーブした先の踏切を渡れば着きます。徒歩約10分。

寿福寺の紹介看板
もみじが美しいです

寿福寺の「中門」です。

自由に入れますが、見学は、外門からこの中門までしかできません。

お墓(供養塔)には行けないの?

と左手にお墓へ誘う矢印と道があります。

中門の左手に道が
車ではいけません
不安になる道のり

左手の道を右手に折れ、ひたすらに道を歩きます。

軽トラがやっと、ギリギリ、いや危ないかも・・の幅なので、徒歩でしか行けません。

独りだと不安になるくらい歩きますが、実際にはおそらく数分。

やがて目の前にたくさんのお墓が見えてきます。

寿福寺の裏手は現代も供養に使用されている一般の墓地なので、敬意を持って進みます。(写真は撮りません)

おそらく迷うとしたら、この墓地に入ったあたりからです。

線路を超えて寿福寺境内に入ってから政子さんの供養塔までの道のりを黄色ラインで示します。徒歩で10分程度でしょうか。

正面奥まで進み、横穴墳墓(よこあなほんぼ)[その2へ]群を左手に見ながら、墓地全体では右奥に目指す場所があります。

北条政子さんのお墓(五重の供養塔)です。お名前が添えてあるので、わかりますが、供養塔だけ見ても、それとはわかりません。

直接お墓(供養塔)を写すのは、はばかれますので、横穴墳墓(よこあなほんぼ)とよばれる「やぐら」の入り口を撮りました。

政子さんの供養塔の右側には、「源実朝」(ドラマではこれからの悲劇を大竹しのぶさん演じる巫女が暗示していましたね。)さんのお墓(供養塔)もあります。

ちなみに実朝さんはご自分の甥に殺害されます。

お墓(供養塔)の案内板には、『北条政子の墓』とされていますが、他には『政子』のみ、『源頼朝婦人』や、『尼御前』『尼将軍』とも呼ばれます。婚姻したら夫の姓を名乗る?と考えがちですが、『源政子』とは呼ばれません。

姓、名字についての記述が少ない鎌倉時代については[その3解説へ]。

その1の解説

五輪塔というのは、亡くなった方のゆかりの地に供養するお墓の代わりとして建てられるものです。

つまり、五輪塔の下に亡くなったご本人のご遺体がある訳ではありません。

政子さんの遺体は、勝長寿院(しょうちょうじゅいん)のかたわら。
実朝さんの遺体は、高野山の金剛三昧院(こんごうざんまいいん)に葬られたと記録があります。
「吾妻鏡」(あずまかがみ)より。

しかし、、勝長寿院(しょうちょうじゅいん)は残念ながら焼失してしまったので、今は見ることもできません。

その2

中世の武士や高僧の特徴的なお墓の形、横穴墳墓(よこあなほんぼ)。

特に鎌倉市に多く残り、その数2000とも3000とも言われています。

13世紀後半の鎌倉時代中期から15世紀の室町時代中期までに造られたとみられ、崖面に長方形の横穴を掘り、石塔や石仏を建てて供養します。【やぐら】とも呼ばれています。

崩落の危機にある横穴墳墓について、保存・研究がすすめられている記事がありましたので、更なる興味があればこちらへ

寿福寺は、もともと源頼朝の父、源義朝の屋敷があった場所でした。

源頼朝が亡くなった翌年、政子さんが建立したのが、寿福寺です。

政子さんにゆかりの地であるという説です。

境内の案内板

その3の解説

資料が少ないので、推測に基づく記述をいくつか見つけましたので紹介します。


・『姓』は天皇から賜るもので、現代の苗字とは性質が違います。なので、「源頼朝」などは、「みなもとよりとも」と「の」がつきます。
・鎌倉時代の武士は所領などの土地名などを苗字としていました。
・鎌倉時代(特に初期)の身分制度はまだ厳格ではなく、農民と武士の境界があいまいで、農民の中にも名字を名乗るものもいました。
・女子に関しては、ほぼ姓、名字はありまんせん。そもそも本名で呼び合うという習慣がありませんでした。これは男子も同じ。
☆なので、『鎌倉殿の13人』でも、北城義時のことは「小四郎」。北条時政のことは「四朗」「しいさま」。三浦善村は、「平六」と呼ばれています。
・通称で呼んでいた。本名を呼ばない理由としては、「名前」は神聖なものであり、本名を明かすということは命に関わるとまで言われていたからなどがあります。
・女子に関しては、特に名前を伏せます。身内や夫となる男性にのみ許されていたようなので記録に残りません。このため、「〇〇の女房」「〇〇の娘」などとして伝わるため、本名はわからないというのが通説です。
☆例として、紫式部は本名ではなく、『紫』は『源氏物語』の「紫の上」が由来とも、『式部』は、父、または兄の官位からという説があり、史実は謎のままなのです。

出展
鎌倉観光公式ガイド/寿福寺公式ホームページ
https://www.trip-kamakura.com/place/168.html
産経新聞/中世の横穴式墳墓「やぐら」の実態解明へ 鎌倉市と中国が共同研究
https://www.sankei.com/article/20180502-ADWWOYU4UJN2TAGAORIJ6MAQPM/

歴史は好きですが、鎌倉時代となると時代が遠すぎて教科書で習ったくらいでイメージもできませんでした。が、大河ドラマのお蔭で興味が湧きました。歴史の中で興味があったのは幕末ですが、その幕末を知るためには関ヶ原を、関ヶ原を知るためには戦国時代を知らなければなりません。さてその前となると・・さっぱりだったのが、守護・地頭。その後混沌とした時代の果てに下剋上が出現。歴史のつじつまを見た気がして益々興味が。長くなるので、やめます。

本サイトは、ブログ以外に
「誰かに聴いて欲しい」を目的としたホットラインを開設しています。
こころの発散、リフレッシュの場として、気軽に ご利用 ください。
ご利用には『こんな方におすすめ』『約束』『利用の流れ』『予約ページ』をご覧ください。

この記事が気に入ったら
いいね または フォローしてね!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントを残す